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次回のご案内

開廊10周年記念

「北 辻 良 央 展」

KITATSUJI Yoshihisa Solo Exhibition

  

会期 2024年 6月1日(土)ー6月29日(土) 

休廊日 日月祝 ※左記以外に6.13(木)、6/27(木) は臨時休廊 

営業時間 火ー金 12:00ー18:00 土曜日12:00ー16:00

 

 

《謎“enigma”》北辻良央 KITATSUJI Yoshihisa 2024年 oil on canvas F30 

artist statement

「白い紙」

私が70歳を境にした時、ふと「絵を描こう」と思いついた。70~80年代に「絵画論」が盛んであった。一応、それらに目を通していたと思うが、今は何も思い出せない。そして「絵画論」を敷衍しつつ新たな絵画論を構築しようとするのではないし、そういう能力もない。「絵を描こう」と思った時、残り少ない未来が明るくなったように思えた。かつて高校2年の秋頃に進路を決める時、自分の時間を持てるような仕事はないだろうかと、悩んでいた時ふと「絵を描こう」と天啓のように閃いたのと似た心境である、美大生の時から制作を始めた。70年代は絵らしい要素もあったが、80年代以降オブジェが中心となり、絵画とは遠ざかっていた。今思うに、私の最近の絵画が70年代以降と共通する要素は、具象的であるということである。

 

70年代初めの頃は現代美術の世界では、虚構を廃棄することと再現性から逃れること。

学生時代、毎週ほど銀座、日本橋界隈の画廊を見て巡った。少し年上の又同年代の作家の作品が生きた教材であった。当時の現代美術の世界において、具象的な絵画は如何に生きられるかとふとその頃考えていた。まだまだ現代美術の世界は狭かった。銀座の多くの画廊や美術館では、具象画や泰西名画の展覧会が開かれていた。私自身も泰西名画やキリコなどの展覧会にも興味をもって見ていた。私が初めて具象的な絵(ドローイング)を意識したのは、73~74年に文庫本の小説の一説をスケッチ風に描いた作品であった。主に情景描写された一節であった。文章を読みその文章は読み手の経験したことの記憶によって、ある具体的な情景や空間を再構築し、その文章が作るイメージを再現される。しかし具象的絵は一枚の絵とはならず次のステップへの仲介として、文章を記憶するためのスケッチであった。そしてそのスケッチを見ながら新たに元の文章を思い出し原稿用紙に書いた。それらスケッチと再現した文章の2枚でひとつの作品とした。「記憶」を媒介としたコピーと反復のシステムであった。その半年後くらいに名画(主に具象画)を素材とした作品を作った。まず、名画を見て記憶すべく鉛筆の線でスケッチし、それを青焼きコピーをし、コピー紙に水彩で色を元の名画を思い出しつつ再現した。色の記憶を媒介としたコピーと反復のシステムであった。その後、銅版画、ドローイング、鉄線レリーフ、立体オブジェへとコピーと反復のシステムは展開していったが、決して絵画にはたどり着かなかった。漸く最近、「絵を描こう」と思い至ったのである。

 具象的なものの形姿、それらの組み合わせによってできるイメージによる作品たちは、すでに半世紀になった。何故に具象的イメージに魅かれたのか、そこには一貫して「記憶」が介在していた。73~74年の文庫本の文章を記憶するという素朴な行為から始まり、複雑なコピー・反復のシステムを経て、年齢を重ねその記憶の内より出てくるイメージがコピー・反復のシステムを意識することなく出現することによって、一体のオブジェとなり一枚の絵画となってきたように思う。記憶が蘇ることは、具体的なイメージとなって作品へと昇華されるのであるが、決して日常的に蘇るのではなく、ある閃きのようなものが、単純な言葉遊びのようなものが、いくつかの記憶の連鎖によってかつてのある情景の再現ではなく、今迄に経験したことのない世界が出現するのである。

自らの作品を現代美術の流れの中に位置づけつつ、自らの作品を反面教師として、セザンヌ、マティスそしてキリコを偏愛してきたように思う。70年代の実直な思い(虚構を廃する、再現性を逃れる)が、初期の制作(コピー反復のシステム)の動機だったが、「記憶」を媒体として制作を重ねるうちにあらゆる束縛から自由になってきた。我々が絵(西洋画)というものを知った頃に帰ってゆこうとしているのかも知れない。白い紙(キャンバス)と絵具と筆による表現の可能性に漸く気づいたのかも知れない。そう言えば美大入試に小論文のようなものがあった。題は確か「白い紙」だったように思う。

DM

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